私の経歴

1966年(昭和41年)神戸大学建築学科の3年生の時から、大学近くの六甲台にあったTeam URのアトリエでアルバイトからそのままメンバーになり、都市計画の仕事に従事してきた。大阪市立大学工学研究科の都市計画研究室に進学したが、時は大学闘争の嵐のまっただ中。大阪市南端の杉本町に引っ越した市大には、ほとんど通学せず、とういうか、大学封鎖で入れず、相変わらず神戸のURで働いていた。
1969年(昭和45年)大阪市大大学院修士を修了し、すぐにURから発展した株式会社都市・計画・設計研究所設立に際し取締役に就任して17年間、1986年に独立して株式会社コー・プランを設立し2005年に代表を退くまで19年間、合計36年間ずっと都市計画・まちづくりの調査、計画実務に携わってきた。 高度成長期の団地開発、街区再開発から、成熟期の住環境整備、地区まちづくりまで、さらに最後の10年間はほとんど震災復興の市民まちづくりに関する仕事、研究、支援一色であったが、そんなさまざまな都市計画業務経歴のなかで感じてきた「まちづくり」への思いを述べさせていただきます。

1980年にはじまった日本の「まちづくり」

「まちづくり」を考える時、我が国での転機は1980年(昭和55年)である。都市計画法が改正され、地区計画制度が導入された年である。神戸市では、都市景観条例が前年(1979年)に、まちづくり条例が翌年(1981年)に制定されている。約四半世紀前のことである。

1978年(昭和53年)に神奈川県知事長洲一二さんが「地方の時代」を世界10月号に発表し、時は民間活力活用・小さな政府、地域が主体となる社会への傾斜が急であった。「まちづくり=地域における、市民による、自律的継続的な環境改善運動」のはじまりを告げる時代であった。「市街地整備のための環境カルテ」が神戸市で策定公表(1978年)され、地域からのまちづくりとして都市計画を考えることを、基礎自治体において真剣に取り組みはじめた頃であった。

その頃英米では

英国ではサッチャー政権が1979年にはじまり(~1990)、米国ではレーガン大統領が1981年に政権についた(~1989年)。日本では中曽根民活内閣がすこし遅れて(1982~87年)始まった。英米日と肩を並べて、高度経済成長以後の新たな社会経済の仕組みの構築を目指していた。政府主導・中央集権から民間活力・地域主権への転換である。都市計画から「まちづくり」への転換でもあり、NPO・ソーシャルエンタープライズの登場でもあった。

英米がその後、その路線を法制化し、社会的にも一般化していったのに対し、日本では2001年(平成13年)の小泉改革内閣の突然の成立を待たねばならなかった。

日本の転換が遅れたその主因は経済バブルである。日本の「まちづくり」を10年(20年かも知れない)遅らせたのは、我が国の経済バブル期(1986~1991年頃)とそれに続く空白の10年と言われるバブル経済崩壊後の停滞経済社会情勢といってよい。1986年(昭和61年)頃からのバブル景気は、地道な密集市街地都市環境整備への取組み、すなわち、まちづくりへの取組みを、東京発の地上げ軍団があざ笑い、バブルがはじけた後は、ひたすら縮小ちぢみ指向に、まちづくりどころではない、ということとなった。

阪神大震災とまちづくり

そうした時代の流れの中で、絶妙な時期に阪神大震災は起こったのである。まちの再生・復興まちづくりに向けて、これまでの都市計画行政ではにっちもさっちも行かない。それでも、これまでの都市計画法制の特例で対応しようという復旧・復興方針のなかで、「二段階都市計画決定」という、言い訳じみたそれなりに巧妙な(既存システムを守りながら、市民まちづくりを組み込んでいく)方式を、行政も非行政も納得していくことになった。

振り返って、1980年の頃の「まちづくり」への取組み、コミュニティカルテから環境カルテ、CRP(Community Renewal Program)、ころがし方式、住宅地区更新事業・住環境整備モデル事業など、といった様々な当時のキーワードが想い出される。法律的対応、事業的な組み立て、住民参加システムなど今から考えても、コンピュータやインターネットなどの技術なしに、いろいろと深い検討をしたものであった。しかし、当時の思考外であった「主体」へのアプローチ不足が、全ての敗因であったかもしれない。それが今、私がまちづくりNPOに実務を退いた後の責務として関与している要因である。

住民参加から住民主体のまちづくりへ

地域における都市計画事業や地域整備政策に、住民の意向を反映させる「住民参加のまちづくり」から、行政主導ではなく住民がそれらに主体的に取り組む「住民主体のまちづくり」が、参加型の次の段階である。行政の方からいえば協働型のまちづくりということになる。 しかし参加型でも協働型でも、いずれにせよ、問題は「まちづくり」というほうで、いつからこのひらがなの「まちづくり」という言葉が盛んに使われるようになったのかは、定かではない。が、一説には名古屋市栄東地区再開発整備において1960年代に使われたのがはじめであるという。もちろん、ことばの用例としてはそれまでにあったであろうが、住宅公団と地域住民の相互協力のうえでの事業推進という実例の中で使われた、という意味での「まちづくり」のスタートであったようだ。

「まちづくり」とは何か?

「都市計画」では当然なく、町づくりでも街づくりでもない「まちづくり」とは、いま、 いったいどんな場合に使われている言葉なのだろうか?兵庫県の県土整備部には「まちづく り局」があり、数年前には1年間だけであったが「まちづくり部」というものもあった。国土交通省都市・地域整備局にも「まちづくり推進課」がある。普通に行政部門でも「まちづくり」という語句が使われはじめている。市町レベルでは、もっと以前からすでに一般的に使われている。

それどころか、福祉のまちづくり、緑のまちづくり、まちづくり事業、まちづくり委員会など、共通する同じ概念の「まちづくり」ではとても囲みきれない範囲まで「まちづくり」という言葉は使われている。たとえば、兵庫県のまちづくり課はバリアフリーなどのユニバーサルデザイン普及を前提とした福祉からの建築誘導(ハートビル法など)と、大規模小売店舗の立地規制を念頭に置いた中心市街地活性化を扱っている(大規模小売店舗立地法など)。もちろんそれも立派な「まちづくり」であるわけだが、都市計画的な地域整備全般をカバーする「まちづくり」は都市計画課や市街地整備課などの対象である。いったい「まちづくり」とは、どのような意味をもって、使われているのか?

「まちづくり」は運動である

私は、まちづくりとは「地域における、市民による、自律的・継続的な、環境改善運動」と定義している。すなわち、まちづくりとは運動である。重要なのは、「地域における」「市民による」という点にある。地域市民が安全安心・福祉健康・景観魅力のための環境改善運動を、自分たちが自律的に、継続的にやり続けることが「まちづくり」である。

対比的に<法定都市計画>は「国家における、行政による、統一的・連続的な、環境形成制度」ということになろうか。


◆参考資料:小林郁雄/まちづくりのマネージメントシステム (2006年『まちづくり学』第4章まちづくりのマネージメント、朝倉書店)
◆参考資料:小林郁雄/1980年にはじまった日本の「まちづくり」 (2008年『復興塾通信18号・まち研ニュース15号』理事長からのメッセージ、神戸復興塾・NPO神戸まちづくり研究所)

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