まちあるきの会

斉藤 庸平(YOHEI SAITO)
【略歴】都市計画及び造園のコンサルタントで実務に従事し、現職
     専門は、緑地計画、都市防災計画

 

今日は、学生達と始めた課外活動を紹介します。

この会は、地域の面白いところや楽しいところを、多少のこだわりを持って、探索に行く会です。これだけでピントとくる方もあると思いますが、例のNHKの番組「ブラタモリ」を見て、やってみたいなと思っていたところ同じ感想を持っていた学生達がおり、彼等と始めた次第です。なかなか実現できなかったのですが、今年の6月に学生達と一緒に第1回「淡路鉄道の痕跡を探して」を行いました。

淡路島には、昭和41年まで鉄道が走っていました。それもいわゆる軽便鉄道の類ではなく島の中心都市洲本市から鳴門海峡に面した福良港までの約25㎞を17の駅で結ぶ本格的な鉄道でした。ノンストップの急行まで運行されていました。戦後は電化され、つまり電車も走っていたのです。このように島を走る電車鉄道は、国内では唯一、世界的にも珍しいようで、そのためか、インターネットで検索するといっぱい記事が出てきます。当時の鉄道風景は、そこでチェックしてみてください。

さて、今回は、洲本駅からスタートしました。洲本駅があった場所はそのまま淡路交通のバスターミナルに転用されているのですぐ分かります。写真1のとおり、なんとなく当時のホームを想像できるのは楽しいですね。次の写真2は、洲本川のたもとに2~3軒の家が独立して立地している変わった土地利用の所で、何でこんなことになるのかと不思議に思うところです。地図上や地元の方の話を総合すると、ここに寺町駅があったようです。洲本川を渡るため付近の道路より高い所にホームが設置され下の道まで下りるアプローチや階段等があったと想像されます。変わった土地形状の理由が少し分かり、なるほどと納得できます。

このようなゆっくりとしたペースですので、1/3も回れませんでした。あとは、第2弾、第3弾ということになりますが、このゆっくりとしたペースの地域めぐりも捨てがたい魅力があります。

ところで今回は、決定的な痕跡は見つかりませんでした。さすがに45年前の年月は、土地利用を大きく変えており次回は、もう少し綿密な事前調査が必要なようです。淡路鉄道は、地元では通称「淡鉄(ダンテツと読む)」とよばれ、淡鉄を知る方は、誰もがほんとうに懐かしそうに話してくれます。急坂で止まってしまい乗客が手伝って押したとか、さまざまな愛すべきエピソードが残っています。最後に、地域の方から教えてもらった「淡鉄数え歌」の一節を紹介します。

『九つとせ こんなことなら 始めから 歩いた方が先に着く ソイツァ 呑気だね ソレ ドンガラシュッポンポン』

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写真1 洲本駅があった淡路交通のバスターミナル

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写真2 寺町駅があったと思われるところ(写真奥に洲本川が流れている)

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