兵庫県立大学大学院・緑環境景観マネジメント研究科
竹田 直樹

●ヒトは本能的に展望を好むのか?

東京タワーや通天閣などその都市を代表する塔や、主な超高層ビルの最上階には展望室があり、いつもたくさんの人々が行列を作ってエレベーターの順番待ちをしている。有料施設も多いから、その場合、展望室から望む風景は有料の風景なのだということになる。また、観光地には、たいてい展望施設や展望のポイントがある。人々は高い場所に登って展望するのが好きなようだ。分譲マンションでは、通常、間取りが同じでも上層階ほど価格が高く、これは展望をその根拠のひとつとする場合が多い。つまり現代社会において展望は経済的価値をともなうものでもある。そして、だれもが、展望台や山の頂から見晴るかす風景を眺めて感動した経験があるだろう。
ランドスケープアーキテクトのクリストファー・アレクサンダー(1936‐ )は、「小高い場所に登り、眼下に広がる自分の世界をじっくり眺めたいという気持ちは、人間の基本的な本能の1つのようである」としている。だが、本当に高いところから展望することが、文化的あるいは社会的なものではなくヒトの本能により好まれるのだろうか。ここでは、そのメカニズムについて考えてみたい。

●ジェイ・アプルトンの『眺望‐隠れ場理論』
 
三月もまだ浅いある日曜日のこと、そろそろ復活祭も近づいたので、私たちは高くそびえたブナの森へでかけた。美しく茂った樹々はウィーンの森じゅう探しても、これほどの場所はまたとあるまいと思われるほどだ。やがて私たちは森の中の開けた草地に近づいた。ブナの高いツルツルした幹は、森をふちどるこんもりとしたヒースの藪にかわる。私たちは足どりをゆるめ、これまで以上にあたりに気をくばりだした。いよいよ最後のやぶをくぐりぬければ、平らな草地へでる。そこまできて私たちは、あらゆる野性の動物が、そして動物通やイノシシやヒョウや狩人や動物学者たちが、そうしたときにきっとするように振舞った―――つまり、いきなり草地へとびださずに、注意深くやぶの中からむこうをうかがったのである。こうすれば、自分の姿をかくしたまま相手の姿を見ることができる。それは狩るものにとっても、狩られるものにとっても有利なことなのだ。

これは、コンラート・ローレンツ(1903‐89)の著書『ソロモンの指輪〈動物行動学入門〉』の一節である。たしかに、動物や狩猟時代のヒトにとって、自らの姿を隠しつつ、周囲を見渡せる環境は生存していくために有利なポジショニングでありポジティブなものであったと類推できる。このローレンツの一節を手がかりとして、地理学のジェイ・アプルトン(1919‐ )は、ヒトが身を隠しつつ周囲を展望できる環境を本能的に好むのだとする『眺望―隠れ場理論』をその著書『風景の経験』の中で提唱する。
そして、アプルトンのこの考え方を引用しつつ、樋口忠彦は、「自分たちの住む土地をよく知り、愛するためにも、また高いところに登って自分たちの棲む土地を見おろしたいという人間の本性的ともいえる欲求を満たすためにも、だれもが気軽に登れる『国見山』型景観を町や村ごとに身近につくりだしていく必要があるように思う」と述べている。
さらに、進士五十八は、新宿御苑の樹林に囲まれた芝生広場におけるアベックの生態を観察し、「いくら広々とした芝生広場の真ん中が空いていても、ゴキブリのように隅っこの樹木の林縁部にはりついている」としている。おそらく、アベックは自らの身を隠しつつ、展望は確保しておきたいと考えているわけで、このようなヒトの行動もアプルトンの『眺望―隠れ場理論』によって、説明できるのかもしれない。

●サルの展望

以上に基づいて考えるなら、イノシシやヒョウが茂みの中から草原へ視線を向けたときの感覚が、今日、私たちが超高層ビルの展望室から展望したときの感覚の深層に遺伝的レベルで横たわっていることになる。それでは、逆にイノシシやヒョウが超高層ビルの展望室からの展望を楽しめるのかというとにわかにそうは思えない。そもそも、ヒトとその他の哺乳類では、視覚の性質が異なっている。動物がどのように外界を見ているのかという問題は、意外と研究が進んでいないのだが、爬虫類からの進化の過程で夜行性を選択した哺乳類は、一般的に色覚が弱く、前述したようにヒトと同じ3色型色覚をもつのはオランウータンやニホンザルなどの狭鼻猿類に限られる。また、テンプル・グランディンは、一例としてイヌの視覚について、犬種により異なるとしながらも、強い近視であり無限遠は見えないとし、また、一般的に被食動物は、目が離れてついおり、視野は広いが、正面中央に一部死角があり、立体視も不完全とする。これでは、これらの哺乳類は展望できるとしてもヒトの展望とはかなり異なる展望となりそうだ。少なくともヒトがイノシシやヒョウと共通する遺伝子によって、展望を好むのだとは考えにくい。
それでは、ヒトとほぼ同じ視覚をもつと考えられているサルの展望とはどのようなものなのだろうか。伊谷純一郎は、野生のチンパンジーを観察し次のように述べている。

四時四四分に、サカマの木の上に、チャウシクとンディロが登っているのを見つけた。二頭とも意外に落ち着いていた。遠くをじっと見つめていたが、サトウキビを口にいっぱいほおばっていた。(中略)チャウシクとンディロは、黙ってカシハのほうを見ながらサカマの木の上にいて、五時三一分に北の山に去って行った。

2頭のチンパンジーは、木の上に登りサトウキビを食べながら、遠方(カシハ谷の方向)を47分間じっと見ていたのである。このとき、チャウシクとンディロが展望を楽しみながら食事をしていたのかどうかはわからないが、少なくとも彼らが展望していたように見えたのは確かな事実なのである。さらに、伊谷は野生のニホンザルを観察し次のように述べている。

見張りのサルは、大きなオスで、昨日とおなじ尾根の上で、アケビの蔓を楯にして監視をつづけた。ときどき姿が見えなくなるが、10メートルばかり離れたところで、また顔を出す。これが、おなじ一匹のサルであることは、リッジの上のアケビの蔓がかすかにゆれ、そのゆれが移ってゆき、そのゆれの止まったところからサルの顔がでるのでよくわかった。

伊谷によれば、ここでの見張りのサルとは群れの代表であり指揮者なのだということだ。このサルは、アケビの蔓にローレンツのいうように身を隠して外敵の接近を監視しているのであって、そのついでに展望を楽しんでいるかどうかは定かではない。だが、少なくともここで尾根の上に登り展望を独占しているのは群れの代表という地位によるものなのだといえる。
外敵の接近を監視するために見張りを行うのはサルに限ったことではなく他の動物もすることなのだが、宮地伝三郎によれば、高い場所にわざわざ登って行うところにサルの特徴があるようだ。
また、ウィリアム・マックグルーは、ヒトとチンパンジーの狩猟を比較して次のように述べている。

どちらの種でも、視覚、聴覚、嗅覚の手がかりもとに獲物を探す。どちらの種も高いところに登って目で獲物を探す、といった〈戦術〉をもっているが、チンパンジーが探索のために〈戦略〉を用いているかどうか、はっきりしない。

つまり、ヒトとチンパンジーはともに、高いところに登って聴覚や嗅覚ではなく視覚によって、獲物を探すのである。このことは、ヒトとチンパンジーが、生きていくために高いところに登って展望したいという欲求をもっている可能性を暗示する。
以上のような観察結果や言説から、霊長類は高いところに登って展望することを好む性質を持っている可能性があると言ってよいのではないのだろうか。私たちは高いところに登って展望することを快く感じるわけだが、その感覚が遺伝子レベルのものである可能性はかなり高いと思う。言葉も火も使わない私たちの祖先は、空腹の中、高い場所に登り展望することにより獲物を見つけ、幸福な衝動に包まれていた可能性がある。その時の幸福な衝動が展望という行為と結びついてしまったのかもしれない。そのため、私たちは展望台を見つけると登ってしまうではないのだろうか。

●古代の展望と現代の展望

そして、森を出たサルは、やがてヒトとなるわけだが、彼らも古くから展望を好んだことがわかっている。土橋寛は、古代日本には、初春に自らの棲む地域を見渡せる丘や小山に登り、一日を楽しむ「春山入り」という行事があり、この行事の儀礼的な部分が発展して「国見」という行事が生まれ、それが次第に天皇制と結びつき、天皇の国見となっていくとする。万葉集にはいくつも国見歌が収録されており、代表的なものとして、舒明天皇(593推定‐641)による次の歌がある。

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香久山 登り立ち国見をすれば 国原は
煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ、蜻蛉島 大和の国は

ただし、古代日本の人々が、春山入りや国見において、今日私たちが、超高層ビルから展望するような展望を得ていたとは限らないのである。つまり古代の展望と現代の展望は質的に異なっている。
香西克彦は、国見歌の研究を行い、多くの国見歌が、見えるはずのないものや、想像上のものが見えたとしていることを指摘し次のように述べている。

現代に生きる我々には、主体としての私にとって、しかも覚醒した状態であるならば、今ここに「見え」ないものは「見え」ないと言う他はない。さもなければ信用を失することにもなりかねない。ところが古代人は「見え」ない筈のものが「見ゆ」と高らかに詠い上げる。

つまり、古代にあっては、風景はいまだ成立しておらず、環境と人が交感し合う霊的な世界が広がっていたのである。
古代人と私たちは、共通して、高いところに登って展望するという、サルにも共通すると予想される遺伝子レベルの本能的な満足感を味わうが、私たちが結果とし風景を体験するのに対し、古代人は私たちと全く同じ環境を知覚したとしても、風景ではなく神々が宿る古代の世界を体験していたはずである。
整理すれば、現代の私たちがたとえば超高層ビルの最上階から風景を展望したときに得られる感動の中には、ヒトへの進化の過程で継承した高いところに登って展望するという本能的で動物的な衝動と、近代という時代の中で獲得した、風景の体験に関わる感覚が混ざっているのだと推測できる。
ヒトが展望を本能的に好むということは、科学的にはいまだ立証されてはいないもののおそらく事実なのではないのだろうか。また、どのような風景にも、展望的な要素は多かれ少なかれ含まれる場合が多いから、それが多くの風景の体験になんらかのポジティブな影響をもたらす可能性があることを付け加えたいと思う。

 

[参考文献]
●ジェイ・アプルトン,菅野弘久訳(2005)風景の経験―景観の美について,法政大学出版局●クリストファー・アレグザンダー,平田翰那訳(1984)パタン・ランゲージ―環境設計の手引き●伊谷純一郎(2006)原野と森の思想―フィールド人類学への誘い,岩波書店●香西克彦(1998)古代日本の風景―国見儀礼にみる視覚の構造,日本建築学会計画系論文集(511),209‐215●テンプル・グランディン,中尾ゆかり訳(2006)動物感覚―アニマル・マインドを読み解く,日本放送出版協会●進士五十八(1987)緑のまちづくり学,学芸出版社●土橋寛(1965)古代歌謡と儀礼の研究,岩波書店●樋口忠彦(1993)日本の景観,筑摩書房●コンラート・ローレンツ,日高敏隆訳(1980)ソロモンの指輪―動物行動学入門、早川書房●伊谷純一郎(1993)チンパンジーの原野,平凡社●ウィリアム・C・マックグルー,西田利貞監訳,足田薫・鈴木滋訳(1996)文化の起源をさぐる―チンパンジーの物質文化,中山書店●宮地伝三郎(1974)サルの話,岩波書店

東京タワーの大展望台からの展望。高さ150mの大展望台の料金は820円で、この上にある高さ250mの特別展望台に行くにはさらに600円が必要である。(東京都港区芝公園2007.08撮影)

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