今回は、地方公共団体による計画的な彫刻設置事業の話である。これは、1961年に山口県宇部市で始まり、以後、日本全国に拡大したが、2000年代に入るとおおむね終焉したと言っていいような状況になった。私は、この時期に、地方公共団体によって日本全国に2万点を上回る彫刻が設置されたのではないかと推測している。設置事業が終焉した原因は、一般にはバブル経済の崩壊にあると考えられがちだが、実際には冷戦終結の方が重要だと思う。この事業により1990年代中頃にパブリックアートという用語が一般的に使用されるようになった。地方公共団体は、駅前、路肩や歩道、都市公園、公共施設などに彫刻を設置するのだが、地方公共団体が設定した彫刻設置事業の目的は、都市環境や景観を改善する、文化を普及・振興するなどというようなものであった。しかし、地方公共団体がそのように考えて予算を編成して事業を推進したことは確かな事実だが、彫刻設置事業にはその深層に本当の目的が隠されている。彫刻設置事業の本当の目的は、自由主義のモニュメントを建設することにあったのだ。

向井良吉:蟻の城,1962,山口県宇部市常盤公園


そのことは、日本ばかりを見ていてもわかりにくい。1960年代から2000年にかけての同時期にアメリカ合衆国でも地方公共団体による彫刻設置事業が推進されていた。日本の事業はこのアメリカの事業や、西欧諸国でやはり同時期に展開した同様の事業の影響を受けたものと思われがちだが、実際には独自に開始されたものであった。アメリカと日本の事業を比較すると、日本の事業は、地方公共団体の予算に基づくものであったが、アメリカの事業は、必要な費用の半額を連邦政府が助成するという制度が整備されており、日本と比較してより国策としての色彩が明確だった。そして、アメリカの彫刻設置事業も表面的には都市環境や文化振興に関わる日本と同じような目的が設定されていて、芸術家を保護するというようなアメリカ特有の大局的な目的も存在したが、それほど大きな違いはなかった。設置される彫刻は、日本では具象作品と抽象作品が混在していたが、アメリカでは人種差別の問題があって公共空間で人物をモチーフとしにくいこともあり大規模な抽象作品が主体となったが、両者には決定的な大きな違いはない。

この時代は冷戦期であり、ソビエト連邦では、都市の広場には必ずレーニン像やスターリン像などが設置され、指導者の偉大さを表現する共産主義のモニュメントになっていた。ソビエトでは、なんら共産主義に積極的に貢献しようとしないというような理由で抽象表現が禁止され、フルシチョフは抽象美術のことをロバの尻尾だとした。そして、やがて共産主義がうまくいかなくなると1989年のペレストロイカにより抽象美術は解禁され、1991年のソビエト連邦崩壊のカバー映像は、クレーンに引き抜かれ、バーナーで焼き切られ、あるいは、路上で市民に足蹴にされるレーニン像やスターリン像の姿だった。ここで注目しなければならないのは、1992年から、アメリカにおける連邦政府の彫刻設置事業に対する助成金が、毎年、半減されるようになったことである。つまり、当時のアメリカの街角に設置された抽象彫刻は、本質的にはレーニン像やスターリン像に対抗するために建設された自由主義のモニュメントだったのである。

日本の街角に設置された彫刻も同様の性質をもつものであったと考えてよい。その証拠を挙げるなら、たとえば設置対象となった作品から、積極的あるいは計画的に場所性(サイトスペシフィシティー)を排除していた事実を指摘できる。都市環境の改善を目的とした彫刻設置を想定する場合、作品制作者に設置場所の環境を把握させ、それを作品内容に反映させることにより場所性を確立することが望ましいと考えられる。そうすれば、作品サイドから能動的に都市環境に関与できるようになる。しかし、数多くの地方公共団体で、場所性の確立を防止するために、設置場所と無関係に制作された作品を入手する作品選定システムが採用されていた。この時期に場所性を排除しなかったのは仙台市に代表される限られた地方公共団体であった。宇部市や神戸市に代表される野外彫刻展、ならびに八王子市に代表される彫刻シンポジウムを開催・利用する作品選定システムでは、最終的な作品の設置場所を制作者が把握できないようにしてあったし、長野市に代表される既成の作品を購入し設置する方法では、設置場所に合わせた作品の選択はできても原理的に作品内部に場所性が創造されることはなかった。1980年前後の横浜市大通り公園における彫刻設置事業では、担当者であるアーバンデザイナーの田村明が、景観デザインという観点から作品選定を行ったにもかかわらず、作品に場所性が生じないようにするため既成作品を選択したと言っている。なぜ、これら一連の事業で場所性が排除されたのかといえば、制作者が設置場所を把握することにより作品内部に都市環境の改善に貢献しようとする性質が生じることを避けたかったからである。都市環境の改善を目的に設置される彫刻が都市環境の改善に貢献しないように配慮されるのはおかしな話だが、この背景には都市環境の改善より重要な社会的価値が存在したからである。

エミリオ・グレコ:夏の思い出,1979,宮城県仙台市定禅寺通緑地
佐藤忠良:少女,1977,長野県長野市真田公園
オーギュスト・ロダン,瞑想,1978,神奈川県横浜市大通り公園


戦前や戦中の日本やドイツでは、戦争の美しさや特定の民族の優秀さを表現することが芸術家に強要されていたし、当時の冷戦期の東側諸国では、芸術家に指導者の偉大さや労働の喜びを表現することが強制されていた。このような中で、当時の西側諸国では、芸術に対し、社会に貢献しようとしない自由な態度が求められていた。この価値観のことを「芸術のための芸術」あるいは芸術の自律性という。もし、街角に設置される彫刻が、場所性を担保することにより、都市環境の改善に貢献しようとする態度を客観的に示すようなことになれば、それは芸術が社会に貢献しようとする態度だといえ、芸術の自律性が損なわれると考えられたのである。このことは、日本の街角の彫刻が自由主義のモニュメントであったことの一つの証拠だと言ってよい。つまり、冷戦期の西側諸国の街角の彫刻は、制作者により社会に貢献しないように制作されることにより、自由主義を賛美するという社会貢献を果たしていたのである。自由主義社会というのは芸術家が自らの意思のみに基づき好き勝手に作品を制作できる社会だと思われているが、冷戦期においては、芸術家に自らの意思にのみ基づき好き勝手に作品を制作するように強制する社会だったのかもしれない。社会から自律することを強制された芸術は、自律的にふるまってはいたが本当は社会から自律していなかったのだ。加えて、そもそもパブリックアートが政治性を必然的に帯びるモニュメントの性質を持つ限り社会から自律した存在になどなり得ないのである。

ヤノベケンジ:サン・チャイルド(Sun Child),2012,大阪府茨木市阪急南茨木駅東口
名和晃平:Trans-Ren(Bump.White), 2012,大阪府茨木市元茨木川緑地
椿昇:PEASE CRACKER,2014,兵庫県神戸市HAT神戸灘の浜


 ソビエト連邦が崩壊し、共産主義のモニュメントであるレーニン像やスターリン像が撤去、破壊されることにより、競争相手を失った自由主義のモニュメントであるアメリカや日本の街角に設置された彫刻の存在意義は希薄化された。実際、日本における地方公共団体による彫刻設置事業は、2000年代に入るとほぼ終焉したが、完全に終わったわけではなく今でも細々と確かに継続しているのである。なぜ細々と続いているのだろうか。一方、ロシアのレーニン像やスターリン像がどうなったのかと言えば、1991年と翌年に集中的な撤去と破壊を受けたものの、特にレーニン像は一定数残され、観光名所のようになって保存されるようになった。このことは、レーニン像が共産主義とは異なる価値を保有していることを示している。ウクライナでも同じような状況だったのだが、2014年、大統領選挙で反露派のペトロ・ポロシェンコが当選するとソビエトやロシアの残滓を除去するという目的で、ソビエト時代に設置された銅像のうちレーニン像を含むロシア人の像が撤去されるようになった。一方、ロシアでは、2010年代後半に入ると、ウラジーミル大公やアレクサンドル3世などキエフ大公国やロシア帝国時代の皇帝などの巨大な像が設置されるようになり、除幕式には、大統領のウラジーミル・プーチンも出席し、それらは権威主義のモニュメントとしての性質をもつようになる。そして、2022年にウクライナ戦争がはじまると、ロシア軍が占領するウクライナ南部ヘルソン州ノヴァ・カホウカの広場にその場所にかつて設置されていたレーニン像がロシア軍によって再設置されたのである。この出来事は、ロシアは共産主義の再興を目指しているわけではないので、レーニン像が共産主義のモニュメントから権威主義のモニュメントに変質した瞬間を示すものとなった。このような世界情勢の中で、日本の街角の彫刻は、今も自由主義のモニュメントとして、権威主義のモニュメントと対抗しつつそれなりの役割を果たしており、そのような視点からの新たな設置も継続されているのである。もちろん自由主義のことなど表面的には全く意識されていないのだが。

 

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