50年前の景観

記憶というのはあいまいなもので、50年も前となると、身近な景観でも、細部のディティールはほとんど覚えていない。古い写真は当時の記憶をよみがえらせてくれる重要なアイテムだが、たいていは人ばかり写っていて、景観の記録としてはあまり役に立たないものが多い。

写真好きの父は、大阪駅前の市街地から引越し直後、1954年に自宅周辺の景観をカメラに収めていた(写真1)。場所は現在の大阪府箕面市、当時の豊能郡箕面町瀬川である。池田市と豊中市にも近い、町の南西端で、遠景の山なみは池田から箕面、茨木につらなる老ノ坂山系である。近景の左側は大阪大学の北につらなる待兼山で、かなり大きなマツが目立っている。谷筋は水田として利用され、遠景の山に大きな木が目立たないのは、里山として利用されていた時代のなごりだろう。

写真2は2007年に写真1の手前に写っている小屋のあたりから、おなじ向きで写した写真だが、土地利用だけでなく、建物が邪魔して眺望できる範囲もすっかり変わってしまった。まとまった緑など、まったく目に入らなくなっている。

子どものころから植物好きの私も、ときおりおかしな写真をアルバムに残している。写真3は写真1の左側の丘を、1966年に自宅の窓から写したものである。10年あまりで大きなマツは少なくなり、4、5メートル未満のアカマツが生え揃っている。植被の乏しい林床が空けて見えるのもおもしろい。この当時、私は中学生で、この丘でよく遊んだ。林のなかを歩きやすかったことはよく覚えている。山すその水田の畦にはスイランが生え、明るいマツ林にはオケラがあった。溜池の土手にササユリが咲いていたことも覚えている。井戸の水が足らず、洗濯用に汲んだ水路の水にはメダカがいて、買いたての洗濯機で泳いでいた記憶は鮮明である

里山の景観変貌

同じアングルではないが、写真4は写真3の33年後、1999年春の姿である。利用がとだえ、樹木が鬱蒼と茂った「もと里山」だが、私はこの緑を日々、窓から眺めながら暮らしてきた。比較的心穏やかにすごせたのは、ひょっとしたら、この緑のおかげかも知れない。

しかし2年後、21世紀になると、窓からの眺めは一変した。「もと里山」は造成され、大きなマンションになった(写真5)。これぞ「里山のなれのはて」である。たしかに近年は自由に出入りできないほど茂った山だったが、近景の、眺める緑としての価値は高かった。この丘の緑は1976年に保護樹林の候補にあげたのだが、指定されることはなく、市街化区域の民有地ゆえに、結局は失われた。このとき以来、都市計画の用途地域のスケールと配置に、疑問をもつようになった。

値打ちが違う遠くの緑と近くの緑

地元では写真1の山なみ、とくに山麓の保全活動がさかんである。たしかに広域の自然を保全することは、広義の環境調節機能が期待できる緑の保全という面から、大きな意味がある。しかし同じ市域にあっても、日常的には視覚的に接触できず、見えてもどんな緑かもわからない遠くの大きな山なみより、身近な丘の緑のほうが、私にとってはずっと価値が高いと思える。ここは住宅地、あそこは自然地といった大きな区画の用途の指定は、ヒューマンスケールに見合ったものだろうか。少なくとも身近な緑の保全は意識されていなかったように思う。遅きに失したのだが、失ってはじめて、日常、視覚的に接触できる緑は、遠景の緑よりはるかに価値が高いと実感できるようになった。


近年、「もと里山」の保全活動、とくに森林の管理活動がさかんだが、まずは緑としての永続性を担保することが第一だと思う。緑環境景観マネジメントに何ができるかは未知数だが、少なくとも何かできそうなネーミングではある。写真6は50年前の私だが、なれのはての姿と見比べていただこう。さて、新しい大学院の学生と古い私に何ができるか、一緒にゆっくり考えてみたい。

写真1.1954年の箕面町(現,箕面市)瀬川周辺の景観
写真2.2007年の写真1とおなじ地域
写真3.1966年の箕面市瀬川の「もと里山」
写真4.1999年の写真3とおなじ地域
写真5.2001年の写真3,とおなじ地域
写真6.50年前,1957年の私

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