梅原 徹

メタセコイア(Metasequoia glyptostroboides Hu et Cheng)は円錐形の樹形と紅葉が美しい落葉針葉樹で、街路や公園によく植えられています(図1)。2010年はメタセコイアが名づけられて70年目にあたるので、記念の国際シンポジウムや、植物化石展「メタセコイアと三木茂コレクション」が大阪市立自然史博物館で開かれました。

図1.万博公園、太陽の塔のそばに植えられたメタセコイア


メタセコイアの発見

メタセコイアは現在では中国に自生するだけですが、この属の植物は中生代白亜紀以降、とくに新生代第三紀には北半球各地に広く分布し、およそ90~70万年前までは日本にも自生していて、その証拠に各地から化石が産出します(図2)。 メタセコイア属(Metasequoia)の記載は三木茂博士(1901~1974)によるもので、1941年のことです。それまで、この植物化石はヌマスギ属(Taxodium)やセコイア属(Sequoia)とされていましたが、三木先生は詳細な観察から、新しい属と考えられました。その理由は、ヌマスギ属やセコイア属では小枝が螺旋状に配列するのに対し、対生すること、球果の麟片も十字対生することなどです。メタセコイアの名は初め、現生の植物に対してではなく、化石に対してつけられたのです。
生きているメタセコイアが中国で発見されたのは化石の記載から後の1945年、その報告は1946年のことです。日本では戦後の復興がはじまった時期で、明るい話題の少なかった当時、日本人が化石で発見した植物が生きてみつかったということで、大きな話題になったようです。日本への渡来は1949年のことで、米国で種子から育てられた苗木が最初、皇居に植えられました。

図2.滋賀県野洲川の河原にみられる古琵琶湖層中のメタセコイア球果化石(左)と現生の球果(右)



三木先生と私

三木先生は大阪市立大学におられた1950年代後半に、私の父が勤める大学にも非常勤で勤務され、「生物班」というクラブの植物観察を指導されていました。当時、小学生だった私は、父に連れられてたびたび、生物班の野外観察会に参加しました。
先生は宝塚市域を観察コースにされることが多く、途中、ご自宅に寄られ、植えられている植物を観察に使われました。当初、水草を研究されていた先生は、ご自宅の水槽にミズニラ(水生のシダ植物)を栽培されていました。水槽からミズニラをとりだされ、根元に胞子嚢があることを説明された後、奥様に「おい、植えとけ」と云われたことだけは、なぜか印象に残っています。
先生が野外観察に使われていた特徴的な道具に、特大のピンセットがありますが、残念ながら現存していないようです。挟むだけでなく、根堀としても使われていたことを覚えています。子どもの目にはとびきり大きく見えましたが、写真に写った手の大きさをもとに考えると、20~25cm程度だったようです(図3)。
 大人にまじったたった一人の子どもということで、先生や奥様には、とてもかわいがっていただきました。先生のご自宅で、ご夫妻にはさまれて写っているのが48年前の私です(図4)。植物を仕事にするようになったのは、子どもの頃のこうした経験に影響されているのだと思います。

図3.学生を指導される三木先生、右手に特大のピンセットがみえる(1960年箕面)
図4.三木先生ご夫妻と私(1962年宝塚市の先生宅)

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