景観デザイン部門  斉藤 庸平

この会は、地域の面白いところや楽しいところを、自由な発想で探索に行く会です。例の「ブラタモリ」に触発され、同じ思いを持っていた学生達と始めたものです。

今回は、昨年の12月26日に実施した淡路鉄道の痕跡探し第2弾の報告です。

少し復習しておきます。淡路島には、昭和41年(1966)まで鉄道が走っていました。それもいわゆる軽便鉄道の類ではなく島の中心都市洲本市から鳴門海峡に面した福良港までの約25㎞を結ぶ本格的なものでした。戦後は電化され、つまり電車が走っていたのです。このように島を走る電車鉄道は、国内では唯一であり、また世界的にみてもトラムや地下鉄を除くと、ワイト島など限られ珍しいと思われます。そのためかネットで検索するといっぱい記事が出てきます。当時の鉄道風景は、そこでチェックしてみてください。
http://6.fan-site.net/~haasan55/Awaji.htm

さて、前回、洲本駅からスタートして長田駅付近まで調査したので、今回は逆に福良駅より始めました。(図参照)


写真1

まず福良駅は、洲本駅と同様に淡路交通のバスターミナルに転用されているのですぐ分かりました。写真1のとおりですが、ここのどこにホームがあったかの詳細は、営業所の方に聞いてみたのですが不明とのことでした。

福良駅から次の御陵東駅までは、線路がそのまま国道28号に転用されているので簡単にトレースできます。ここで、機関車給水塔を発見しました。この給水塔は、廃線ファンには有名なようで、ネットによく登場し10~15年前程まで存在していたことは分かっていました。今回の調査で、現在もしっかりと残っていることが確認できました。庭のオブジェみたいな使われかたをしており、微笑ましい感じでした。このままずっと残っていると良いですね。(写真2、3)

写真2
写真3


さらに国道28号を進むと八幡の交差点が見えてきます。この付近に御陵東駅があったと思われます。この先で線路は、右にカーブして自動車教習所の横をとおり淳仁天皇陵の北の農道を進みます。
この自動車教習所の裏手に、それとわかる線路敷跡が残っていたのです。メンバー一同興奮です。古い地形図で確認しましたが間違いありません。写真のとおり廃線から概ね半世紀後の今でも雰囲気が伝わってきます。まだ探せば見つかるのですね。今でも走っていたらと、どんな風景を醸し出してくれていたでしょうか。(写真4、5)

写真4
写真5


写真6

次に、淡鉄の碑があるという我がスクールバスの運転手さんの情報により、近くの賀集神社を訪ねました。それは、境内の隅にチクチクボンバーに守られひっそりと設置されていました。あらかじめ聞いてなければ分からなかったと思います。運転手さんありがとうございます。さて調査隊は、チクチクボンバーの総攻撃にもめげず、近づき、淡鉄の創始者である賀集新九郎の功績をたたえた碑であることを確認しました。(写真6)

注)チクチクボンバーとは地域の子供達の通称で、キク科のコセンダングサ(あるいはアメリカセンダングサ)のことを指し、靴下やズボンなどにとがった種がベッタリ付き、チクチク痛いことから命名されたようです。

写真7

御陵東駅から先の賀集駅~神代~市村~一本松~自擬島間は、線路がそのまま直線とゆるやかカーブの農道や街道となっています。今回の調査で、集落の中心部にあたる信号のある交差点毎に駅があったことが分かりました。駅はきちんと集落の中心に存在していたのです。今も存続していたなら自動車が運転しづらくなった高齢者の方などにとって、便利な足として役立ったと想像され、残っていればと思いました。(写真7)

次の掃守駅~長田駅~広田駅は、県道125号になっています。ここは淡鉄数え歌で「見るも哀れな淡鉄の あえぎあえぎの長田越え」と親しみをこめて謳われた峠越えの勾配のきつい箇所です。今回、車で実際に走ってみて、かなりきつい坂道であることが分かり、数え歌の情景がなんとなく実感でき不思議な感覚を味わえました。広田駅から先は、洲本川沿いに洲本駅まで線路は続きます。前回の報告を参照してください。

今回の調査で、鉄道らしい痕跡を見つけることができました。半世紀近くの年月を経ているにもかかわらず、まだまだ地域の記憶が残っているのですね。そして移動の車の中では淡路島の応援歌「ぽんぽこぽん」を聴き、昼食は淡路牛と淡路玉葱をふんだんに使った鉄板牛丼と、笑顔になれる淡路づくしのミニ旅でした。

注)「ぽんぽこぽん」は、淡路地域ビジョン委員長木田薫氏が制作したCDのことです。(「だいすき淡路島」作詩作曲木田薫氏「八狸ぽんぽこぽん」(作詩木田薫氏作曲堀宏子氏)両曲とも覚えやすい曲ですよ。音楽研究会の皆さん、是非、レパートリーに加えてください。

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