3月末、京都市左京区の山麓、鹿ケ谷にある霊鑑寺を訪れました。霊鑑寺は「椿の寺」として知られ、様々な品種のツバキを見ることができます。
ツバキは江戸時代を通じて人気を集めた園芸植物ですが、とくに江戸初期には、二代将軍秀忠や後水尾院といった社会的に大きな影響力を持った人々に強く愛好されました。後水尾院は修学院離宮や圓通寺の名庭を造営したことや、立花を愛好するなど、園芸や植物に関心が深かったことが知られます。霊鑑寺は後水尾院が娘のために創建した門跡寺院で、書院庭園にはツバキ「日光(じっこう)」の大木が存在しました。北村四郎は、1952年の時点でこの木について「高さ8m、下から10cmのところで周囲112cm、下から37.5cmで2本となり各々66cmと80cmある」とし、「凡らく後水尾天皇時代に植えられたものであろう」と述べていますi。
残念ながらこの木は2015年に枯死してしまいましたが、現在も庭園内の近い位置で同じ品種「日光」の姿を見ることができます。霊鑑寺は京都のツバキの名所のなかでも銘椿の多いことで有名で、「日光のほかに、霊鑑寺散り椿、舞鶴、衣笠、奴、獅子、縮緬、蝦夷錦、小桜、霊鑑寺白牡丹、八重侘助など、この尼門跡寺にしかない銘椿があるii」とされ、1934(昭和9)年の『京都美術大観』第12巻京都社寺史蹟總說には、「境内には名椿が幾十種ともなくある。後水尾、後西院両帝が御遺愛の椿と拝察されるものである」iiiと記されています。普段は非公開ですが、毎年ツバキの花期には特別公開が行われています。ツバキは品種によって開花期に数カ月の差があり、花色や咲き方、花の大きさのバリエーションも豊富です。庭園内の様々な品種のツバキは、季節の変化とともに移り変わる見どころを演出してくれる存在です。



重森三玲は霊鑑寺庭園について『京都美術大観』第2巻京都百庭園(1933・昭和8)ivや『日本庭園史図鑑』第13巻(1936・昭和11)vで解説していますが、あまりツバキには興味がなかったようで、『日本庭園史図鑑』で植栽材料として書院南庭にツバキ(三尺三寸)、ナツツバキ(二尺八寸)と東庭にツバキがあると記しているほかには、ツバキには言及していません。
同書に収録された写真や写生図を見てみると、庭園内の高木としてはマツが目立ち、低木は刈り込まれて、四角いものや丸いもの、段々になったものなど、技術が駆使されていた様子がうかがえます。平面図には多数のツバキが描かれているものの、樹冠が小さく低木として管理されていたものや、四角く刈り込まれていたものもあったようです。同時期の『京都美術大観』第12巻では宝物と並んでツバキに言及されていることから、ツバキが当寺固有の特徴のひとつであることは認識されていたと考えられ、庭園の価値評価において、評価者の視点が大きく影響していることがうかがえます。

一方で、これらの史料から、現在の霊鑑寺庭園の景観が昭和初期とは異なる表情をみせていることが読み取れます。現在の書院南庭はツバキ主体の景観となっており、枯池の対岸には低木類はほとんどありません。しかし、『日本庭園史図鑑』を見ると、昭和初期には南庭の池の対岸にも低木の刈込が多く、高木は限られており植栽の構成が現在とは異なっていたことがうかがえます。昭和の初期からツバキで著名な庭であることに変わりはなくとも、景観構成は変化しているといえるでしょう。
現在の霊鑑寺庭園では、日本の伝統的な品種だけでなく、西欧で生み出された品種のツバキもみられます。ツバキは日本の在来種で、江戸期に園芸植物として発展しましたが、アメリカやヨーロッパでも高く評価され、多数の新しい品種が作出されています。このように庭園における植物景観は固定されたものではなく、時代ごとの管理や鑑賞のあり方、社会的な価値観の変化によって姿を変えていきます。こうした視点から庭園植栽を読み解くことで、植物を単なる種類としてではなく、歴史的景観を構成する要素として捉えることができます。景観園芸分野では、植物そのものだけではなく、それを取り巻く歴史や文化、人々の営みも重要な研究対象となっています。

i北村四郎(1952):京都のツバキの古い園藝品種,植物分類地理14(3)115-117
ii渡辺武、安藤芳顕(1980):花と木の文化椿,家の光協会,130
iii中野楚渓編(1934):京都美術大観12,東方書院,一八四霊鑑寺
iv中野楚渓編(1933):京都美術大観2,東方書院,一八霊鑑寺庭園
v重森三玲(1936):日本庭園史図鑑13,有光社,8-11ほか
リンク
『京都美術大観』第2巻京都百庭園(1933・昭和8)※閲覧するには国立国会図書館のアカウントが必要です
『日本庭園史図鑑』第13巻(1936・昭和11) ※閲覧するには国立国会図書館のアカウントが必要です





